エルディション

エルディションとは、博学の意味ですが、雑学程度の情報の紹介

「茶室」の話その2

1、村田珠光の茶室

村田珠光」は、一般に「侘び茶」の祖とされていて、「村田珠光」の「茶室」を知るには、「南方録」の「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図に、珠光が好んだ「茶室」の写しが記録されている。それによれば、この四畳半には一間の床、檜の角柱、襖2枚、障子3枚(「明り障子三本」)があり、天井は高さ7尺1寸の「鏡天井」、壁は「張付」即ち「白い鳥子紙」を張った書院風のものであったと推定される。ただし、外観は「杮葺宝形造」の小庵であったとするから山居の佇まいを見せていたと想像される。(下の図)

 

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東大寺四聖坊数寄屋図

 さらに、「東京芸術大学」所蔵の『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた「四畳半図」があり、その四畳半座敷は、一間床で、床框は栗の四角、一尺七寸炉、勝手との間に襖二枚、壁は張付壁で長押が打たれ、天井は竹縁の蒲天井、入口に縁が付き、縁は半間幅で堅板張、縁先に二ッ割りした竹を打並べた落縁がついたものである。(下の図)

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茶湯次第書の四畳半図

村田珠光」の「茶室」を知るもう一つの手掛かりが、「村田珠光」が京都に定住した後に、自らの法跡である「称名寺」に一庵を設けて「獨盧庵」となずけた茶室である。しかし、1704年に焼失し、その後再建されたが、1762年の「宝暦の大火」で再び焼失していまった。

現存する「茶室」は、1800年頃に第24代「鸞空上人」が再興したものである。(下の写真)

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獨盧庵

 「茶席」の中は、移動式の敷居と壁および障子によって三畳と一畳半に仕切れるように工夫されていて、四畳半の茶席としても、三畳の茶席としても使用できるようになっている。造作は、他の茶席には見られない珍らしいものである。

 

2、武野招鷗の茶室

 

「武野紹鷗」の茶室は、「山上宗二記」に茶室「四畳半」が平面図入りで紹介されている。その図の注記によれば、北向きで、檜柱で、壁は白の張付壁、天井は野根板で、一間床を設けていた。床框は黒く塗った栗の木とあり、障子を立てたと考えられる茶室の正面には「面ノ坪ノ内」と「簀子縁」があり、西側の「脇ノ坪ノ内」から幅2尺ほどの片引きの建具を開けて「簀子縁」の端に上がり、席入りする形であったことがわかる。(下の図)

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茶室「四畳半」

 この「武野紹鷗」の茶室「四畳半」は北向きで窓がなく、光は北の建具側からしか入らなかった。また、入口の鴨居が通常よりも少し低く設置されており、縁に上がる戸口が低かったことと併せ、茶室の入口が俗世間を離れ、非日常的空間への入口であることを象徴している。

武野紹鴎」は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称し、4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称したが、後に「千利休」は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいても、深い混乱を生じさせる事になった。

武野紹鴎」の茶室は、現存していないが、京都洛北紫野の「大徳寺紅梅院」に紹鴎好みと言われる茶室がある。(下の写真)

 

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昨夢軒

 「昨夢軒」は、北側中央に位置する四畳半下座床の茶室で、西と南は襖4枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成で、各方向に行き来が出来ますが、北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となります。出入り口を北側におくのは「武野紹鴎」の手法でもある。江戸時代に作られたようである。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

 

☆参考

藤森照信の茶室学        ○茶室とインテリア