エルディション

エルディションとは、博学の意味ですが、雑学程度の情報の紹介

「茶室」の話その5

前回紹介した「小堀遠州」の茶室、「八窓席」、「忘筌」に続いて、今回は「松隠(閑雲軒)」、「蜜庵(みったん)」の茶室を紹介します。

3、松花堂庭園内 松隠

※「松花堂庭園」は、1977年に八幡市の所有になって、草庵「松花堂」をはじめ、茶室や書院、そして広大な庭園を有している。現在も一般公開されている。「松花堂」は、「男山・石清水八幡宮」の寺坊の一つである「瀧本坊」の住職を務めた「松花堂昭乗」が、1637年に住職を退いた後に、「泉坊」という寺坊に草庵を建て、晩年を過ごした所である。しかし、明治の神仏分離の際に山麓に移されたが、1891年に現在地に移築された。「松花堂昭乗」が社僧として住んでいた「瀧本坊」には、「小堀遠州」が造った茶室や書院などが存在した。 その「瀧本坊」には、1632年に建てられたと言われる「閑雲軒」があったが、1773年に焼失してしまい今はない。その後、再建されることも無く時が過ぎたが、「八幡市教育委員会」が「閑雲軒」の当時の記録や、当時あった場所の発掘によって、山腹の崖にせり出した位置に「閑雲軒」あったことが分かった。それが「空中茶室」であった。

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八幡市教育委員会作成イメージ図

 この「空中茶室」を再現したと言われる茶室が、静岡県島田市の「ふじのくに茶の都ミュージアム」にある。そこにある 茶室「縦目楼」は、「小堀遠州」の茶室等を残されている絵図面などから復元したと言われている。それが、京都の石清水八幡宮の「瀧本坊」と伏見奉行屋敷の一部である。

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この「空中茶室」は、「向峯居」と言われています。この外観と、八幡市のイメージパースと違いがありますが、「懸け造り」であったことは間違いないようである。 それはさておき、「閑雲軒」は、茶室を取り囲んでいる廊下(縁側)が、内側であるが戸外のように構成されて「露地」の役割を果たしている。その「縁」より眼下に絶景を見下ろしながら歩き、「縁」より「躙口」に入る形式をとっていた。 1970年には、「閑雲軒」の残されていた記録やおこし絵図を頼りに、建築家「中村昌生」氏によって「松花堂昭乗」のゆかりの地である「松花堂庭園内」に「閑雲軒」が復元された。それが、「松花堂庭園」の「松隠」である。

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八幡市教育委員会」のイメージ図のように、「懸け造り」で宙に浮いていないので再建には程遠いが、内部に関してはほぼ再建通り復元されていると思う。再現された「松隠(閑雲軒)」は、高床式になっていて、「躙口」の前にある「濡れ縁」で高さのある「蹲踞」で清める。 復元された「松隠(閑雲軒)」の間取りは、四畳台目であり、客座は長方形の四畳である。その長辺形のおよそ中央部に台目構えの「点前座」が設けられ、「床の間」は下座に構えられ、「躙口」は、「点前座」の対面の壁の中間部に開けられている。

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図面上の奥の炉の切ってある所が、復元された「閑雲軒」の茶室に当たります。

「茶室」の「客座」は、長方形の四畳で、写真右側に台目構えの「点前座」があり、左側に「躙口」が設けられています。「躙口」の上には「連子窓」と「下地窓」が重ねて配置されている。「躙口」が、壁の端にないことで、「床の間」側と反対側の二つに空間に分けられている。

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(「松隠」にて開催したガラス作家・大下邦弘氏の作品展より)

「点前座」には、台目切りの「炉」が設けられ、亭主の入る「茶道口」と料理や菓子を客座に運ぶ「給仕口」が直角に設けられている。「点前座」の上部には、「突上窓」が当初の「閑雲軒」には開けられていたが、復元では屋根構成の関係で省略されている。

「松隠」の正面側には、一般に公開、使用されている大広間の茶室があります。

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高床式のために、嵩上げされた床面からの出入りには、数段の踏み石が階段のように配置されている。

 

4、龍光院 蜜庵(みったん)

※「龍光院」は、京都市北区大徳寺町にあり、「大徳寺」の塔頭で、1606年に「黒田長政」が父「黒田孝高」の菩提所として創建された。その「龍光院」の書院に接続された四畳半題目の茶室が、「蜜庵」である。 「蜜庵」は、「小堀遠州」の好みと伝えら、当初は別棟で、二方に「縁」が巡っていた。床、違い棚、書院床を備えた四畳半に、台目構えの「点前座」が付加されている。

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世に「密庵床」として知られる「書院床」は、当院伝来の「密庵禅師」の墨蹟をかけるためにつくられたといわれるが、「龍光院」の開山「江月宗玩」の茶会では、ここに付書院の飾りがなされていたことがあった。

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(パンフレットに掲載された写真より)

 違い棚の幕板には、遠州得意の図案である松皮菱(びし)と七宝つなぎの透彫りがみられる。柱は、面皮、丸太、角柱を取り混ぜ、一部に長押を取り付け、釘隠を打ち、壁は水墨画を描いた張付壁であるから、「書院造」の意匠を基調としている。

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(パンフレットに掲載された写真より)

 ただ「点前座」は落天井とし、中柱には全体に釿目を施した杉丸太を用いるなど、用材と技法の選択を通じて草庵らしさを醸し出している。国宝に指定されている。

今回は、「松隠(閑雲軒)」は、「京都市文化観光資源保護財団」、「松花堂庭園、美術館」、「ふじのくに茶の都ミュージアム」他を参考に紹介しました。

 「龍光院 蜜庵」は、非公開のために不明な点が多々ありますが、投稿されたブログ等を参考に紹介しました。

 

 ☆参考 

小堀遠州綺麗さびの極み  〇小堀遠州綺麗さびの庭     

  

 

○茶人・小堀遠州の正体   〇小堀遠州の美に学ぶ 日本の五感

    

 

辺野古基地の地盤が70メートル超も「軟弱」

東京新202年2月8日のTOKYOWebによれば、

沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設を巡り、埋め立て予定海域で防衛省の想定に反し、海面下七十メートルより深い海底の地盤が「軟弱」であることを示すデータが検出されていたことが分かった。「七十メートルまで地盤改良すれば施工可能」という同省の設計の前提は、根底から覆る可能性が出てきた。同省は「業者が独断で行った調査で信頼性が低い」としてこの実測データを採用せず、調査した事実すら伏せていた。    

防衛省が基地建設を進めるのに不利なデータを伏せていた背景には、「辺野古ありき」で工事を強引に進める政府の姿勢がある。七十メートルより深い地盤も「軟弱」だったとすれば、基地建設すら危ぶまれる事態だ。防衛省はいま一度立ち止まって、計画を再検討するべきだ。 (中沢誠)

 

このような状況になった以上、沖縄の国民の反対の声も聞かずに強行突破して工事を行ったことを反省するべきであろう。 安倍政権になってから臭いものには蓋をする習性が常態化し、さらに進むと蓋をするだけでなく中身も変えてしまうことまでやっている。 このようななんでもありの政治をしていれば、必ず暴走し国を亡ぼすことになる。

次の動画は、今年の辺野古基地建設の様子の動画です。


20200106 UPLAN 辺野古2020年工事開始の状況と、大浦湾瀬嵩の高所スポットから見えた景観

最近では、東洋経済オンラインによれば、

黒川弘務・東京高検検事長の定年延長が、1月31日の閣議で決まった。65歳が定年の検事総長を除き、一般の検察官の定年は63歳。このため2月8日に63歳となる黒川氏は、検事総長に昇格しない限り、誕生日に定年退官する予定だった。

しかし、政府はその直前に「業務遂行上の必要性」(森雅子法相)を理由に過去に例のない定年延長に踏み切った。

政府側は「保釈中に逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告の事件捜査継続を考慮して法務省が決めた措置」(官邸筋)と説明するが、しかし、同事件の捜査は東京地検の担当で、「捜査実務では東京高検は関係がない」(司法関係者)と言われいる。

黒川氏の定年延長が決まったのは誕生日のわずか8日前。2019年度の補正予算が成立した直後だったが、政界では「次期検事総長に子飼いの黒川氏を充てて、検察全体ににらみを利かせるのが官邸の狙い」(立憲民主党幹部)との見方が広がっている。

このような、政府の都合で人事を行えば、安倍政権の不祥事が闇に葬られるこになる。

政治家は、権力を持っているのだから本来はもっと謙虚にならなければならないのに、逆に権力を国民のためではなく、自分たちのために使っている。まったくもって嘆かわし限りである。

この黒川氏の定年延長を立憲民主党の本田議員が追及している動画です。(テレビ東京


【ノーカット】前代未聞!高検検事長の『定年延長』は安倍政権の“守護神”だから?立憲・本多議員が追及

最後に、「デモクラシータイムス」の動画を参考まで


安倍の論理と倫理の破綻 新型肺炎と世界経済 野党の気概【WeN】

 

参考

 

平成経済 衰退の本質 (岩波新書)

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ユニクロ潜入一年

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茶室の話その4

<今回は、「古田織部」の弟子である「小堀遠州」の茶室を2回にわたって紹介します。

※「小堀遠州」の本名は、「小堀政一」で、「藤原光道」の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住してその村名を姓として、「小堀光道」と名乗った。6代後の「小堀正次」は、縁戚であった「浅井氏」に仕えていたが、1573年に「浅井氏」滅亡後は、「羽柴秀吉」の弟「羽柴秀長」の家臣となった。「正一」は、その「正次」の長男として、1579年に生まれた。 1585年に、「羽柴秀長」が郡山城に移封されると、「政一」親子も郡山に移った。 この頃、「秀長」は、「山上宗二」を招聘したり、「千利休」に師事するなどしたことで、郡山は京・堺・奈良と並んで「茶の湯」が盛んな土地となった。小姓だった「政一」は、「秀吉」への給仕を務め、「千利休」や「黒田如水」、そして「長政」父子とも出会い、長い親交を深めた。 「秀長」の死後、跡を嗣いだ「秀保」も亡くなり、1595年に「秀吉」直参となって伏見に移り、ここで「古田織部」を知り茶道を学んだ。 1598年に、「秀吉」が亡くなると、「徳川家康」に仕えた。1609年に、「従五位下遠江守」に叙任された。以後この官名から「小堀遠州」と呼ばれるようになった。

1、金地院の「八窓席」

※「金地院」は、京都府京都市左京区にある南禅寺塔頭である。応永年間(14世紀末 - 15世紀初頭)に、室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基(南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したと伝えるが、定かではない。1605年に、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移された。1619年に、幕府より僧録に任ぜられ、それ以後、幕末まで「金地院住持」が僧録職を務めることとなり、五山十刹以下の禅寺を統括する最高機関となった。 「小堀遠州」が、「金地院崇伝」の依頼を受け、「金地院方丈」北側の書院に接続して、以前からあったものに手を加え、重要文化財三畳台目の茶室「八窓席」を1628年頃までに完成させた。外観は柿葺の片流れ、三畳台目の平面で、亭主の着席する点前座と床の間が並んだ形式となっている。

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金地院の「八窓席」

床柱が、赤松皮付き、相手柱が櫟の皮付き、そして床框は、黒漆が塗られていて、床の間と点前座との境の壁には墨蹟窓があけられている。点前座は、いわゆる台目構えという形式です。台目切りに炉が切られ、椿の中柱が立てられ、袖壁には下地窓があけられています。

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八窓席

この茶室の特徴は、点前座の向かい側に開けられた「躙り口」の位置にあり、通常ならば端に寄せて開けられるが、壁の途中に設けて、平天井と化粧屋根裏天井を分ける位置配置してある。   

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八窓席

 「千利休」の考案した「躙り口」は、刀を置き、頭を下げ、体を小さくして入る客用に設けられた出入口のことであり平等を表して、「侘び茶」には欠かせない要素のひとつである。しかし、「小堀遠州」は、封建社会の秩序を「茶室」に体現するために、「躙り口」の右左で空間の上下、つまり「貴人座」と「相伴席」に二分し、「茶の湯」の理念と封建秩序をあわせた形式をとった。また、一般的に「躙り口」は、露地から直接上がり込む形式ですが、ここでは「縁」に接して設けられている。

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墨蹟窓に花入れの釘を打つこと、雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式などの「織部」の作意を伝えている。

2、孤篷庵の「忘筌」
※「孤篷庵」は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院大徳寺塔頭である。1612年に、「黒田長政」が創建した。1608年に「龍光院内」に「小堀遠州」が「江月宗玩」を開祖として建立した庵を1643年に現在地に移し、「江雲宗龍」(遠州の実子)が継いだ。その後、1793年の火災により焼失するが、「遠州」を崇敬した大名茶人松江藩主の「松平治郷(不昧)」が古図に基づき再建した。 「孤篷庵」にある茶室「忘筌」は、L字形に構成された十二畳の書院座敷です。L字形にすることで、「相伴席」を組み込んだ形式となっている。北側の三畳部分です。遠州の師である「古田織部」は、敷居と鴨居によって厳密に区分された「相伴席」を表現したが、ここでは緩やかな区分となっている。また点前座と床の間を並べることも遠州の得意とした。

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「忘釜」の図

もっとも注目される部分は縁先の構成です。外壁に面して中敷居の上に障子が建てられ、その下が解放されていて、外部は生け垣で囲われ、茶の湯の庭として必要最小限の手水鉢、燈籠を室内から見せている。                  

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「忘釜」の中庭眺望
その軒内部分が露地に相当し、タタキの中に飛石が打たれ、沓脱ぎ石から縁へ上がるように組み立てられてる。中敷居があるため縁への上がり口は、「躙り口」のように頭を下げないと通れないような仕組みになっている。これは、「草庵茶室」の躙り入る方法を書院に応用したものである。        

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「忘釜」の露地
またこの上がり口の位置は座敷の中央となっており、その左右で空間の上下の意味を変えた平面構成となっている。

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「忘釜」の床の間

 室内の天井は、いわゆる砂摺り天井と呼ばれ、杢目を浮き立たせそれに胡粉を塗った竿縁天井である。点前座と床の間の境部分は、風炉先窓のように吹き抜かれ井桁の格子を組み、下半分を唐紙張りとしている。「炉」は、はじめ台目切りであったが、現在は四畳半切りに構えられている。

今回は、「京都市文化観光資源保護財団」、「探訪日本の古寺6」他を参考に紹介しました。
小堀遠州の茶室Ⅱ」を次回で紹介します。

 

☆参考

  ○小堀遠州綺麗さびの極み   ○小堀遠州 気品と静寂が貫く綺麗さびの庭   

               

           

      

茶室の話その3

今回は、「千利休」の「七哲」のひとり「古田織部」の茶室を紹介します。

※「古田織部」は、本名は「古田重然」であり、1543年に、美濃国本巣郡の山口城主「古田重安」の弟「古田重定」の子として生まれ、、後に伯父「古田重安」の養子となった。1567年に「織田信長」の美濃進駐と共にその「信長」の家臣として仕え、1576年には、山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。「信長」死後は、「秀吉」に仕え、1585年に「秀吉」が関白になると、「重然」は、功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。 1582年頃に、「千利休」に弟子入りしたとみられる。1591年に、「秀吉」による「利休」追放で、「古田重然」と「細川忠興」のみが「利休」を見送った。

1、「燕庵」

「燕庵」は、現在京都市下京区の「薮内家」にある。「古田織部」が、大阪の陣に出征するおり、義弟にあたる「藪内家初代剣仲」に与えた茶室と伝えられ、2代「真翁」は、「西本願寺」の茶道師家に迎えられ門前に屋敷を移した時に、「剣仲」屋敷の茶室も移された。その時に茶室を「燕庵」と名づけられた。1864年に兵火によって「藪内家」が、延焼し「燕庵」も失われた。そのため、摂津有馬の「武田儀右衛門」が、忠実に再現した茶室を1867年に移築したのが、現在の「燕庵」である。

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燕庵

「燕庵」は、茅葺き入母屋造で、南東隅の土間庇に面して躙口をあけている。

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「燕庵」は、茅葺屋根の草庵茶室であり、書院書院様式を取り入れながら、貴人を迎える形式をそなえている。

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三畳の客座を挟んで点前座と相伴席を配している。客座との境に二枚襖を隔てて相伴席を付設した点に「燕庵」の特徴である。「燕庵」は、「利休」の開口部の少ない茶室と違い、窓が多いのが特色のひとつであり、点前座勝手付きの色紙窓以下全部で10窓を数える。

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墨蹟窓に花入れの釘を打つこと、雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式などの「織部」の作意を伝えている。

墨蹟窓に花入れの釘を打つこと、雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式などの「織部」の作意を伝えている。

2、八窓庵(含翆亭)

「八窓庵」は、奈良の「奈良公園」内にある「奈良国立博物館」の中庭にある。「八窓庵」は、もとは「興福寺」の「大乗院」庭内にあった茶室で、「含翠亭」ともいい、江戸時代中期に建てられた。「古田織部」好みの「多窓式茶室」として有名で、この茶室と「興福寺塔頭「慈眼院」の「六窓庵 」(現所在東京国立博物館)、「東大寺塔頭「四聖坊」の「隠岐録」(東京へ移建の後、戦災で消失)と合わせて「大和の三茶室」といわれた。 「八窓庵」は、地元に永久保存されることを望む奈良在住の篤志家数名の努力によって当時の「帝国奈良博物館」へ献納されたもので、1892年に移築された。

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「八窓庵」

様式は、四畳台目下座床で草庵風の入母屋造り茅葺で、天井は床前から点前座にかけて蒲天井とし、残りは化粧屋根裏になっている。

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「八窓庵」の点前座

千利休」の茶室と異なり、違い窓が多くあり、茶室内部から8つの窓が見えるところから「八窓庵」と呼ばれている。

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「八窓庵」の図

「利休」の「侘び茶」の景観を抑え、内面の美を追求した狭い茶室に比べ、「織部」は視覚的な美を追及をし、窓を多く設けて暗くて陰気な雰囲気を解消した茶室を求めた。

今回は、「Wikipedia」、「藪内の茶」、「奈良博物館」他を参考に紹介しました。

☆参考

     ○古田織部展      ○古田織部の世界

              

     

「茶室」の話その2

1、村田珠光の茶室

村田珠光」は、一般に「侘び茶」の祖とされていて、「村田珠光」の「茶室」を知るには、「南方録」の「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図に、珠光が好んだ「茶室」の写しが記録されている。それによれば、この四畳半には一間の床、檜の角柱、襖2枚、障子3枚(「明り障子三本」)があり、天井は高さ7尺1寸の「鏡天井」、壁は「張付」即ち「白い鳥子紙」を張った書院風のものであったと推定される。ただし、外観は「杮葺宝形造」の小庵であったとするから山居の佇まいを見せていたと想像される。(下の図)

 

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東大寺四聖坊数寄屋図

 さらに、「東京芸術大学」所蔵の『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた「四畳半図」があり、その四畳半座敷は、一間床で、床框は栗の四角、一尺七寸炉、勝手との間に襖二枚、壁は張付壁で長押が打たれ、天井は竹縁の蒲天井、入口に縁が付き、縁は半間幅で堅板張、縁先に二ッ割りした竹を打並べた落縁がついたものである。(下の図)

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茶湯次第書の四畳半図

村田珠光」の「茶室」を知るもう一つの手掛かりが、「村田珠光」が京都に定住した後に、自らの法跡である「称名寺」に一庵を設けて「獨盧庵」となずけた茶室である。しかし、1704年に焼失し、その後再建されたが、1762年の「宝暦の大火」で再び焼失していまった。

現存する「茶室」は、1800年頃に第24代「鸞空上人」が再興したものである。(下の写真)

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獨盧庵

 「茶席」の中は、移動式の敷居と壁および障子によって三畳と一畳半に仕切れるように工夫されていて、四畳半の茶席としても、三畳の茶席としても使用できるようになっている。造作は、他の茶席には見られない珍らしいものである。

 

2、武野招鷗の茶室

 

「武野紹鷗」の茶室は、「山上宗二記」に茶室「四畳半」が平面図入りで紹介されている。その図の注記によれば、北向きで、檜柱で、壁は白の張付壁、天井は野根板で、一間床を設けていた。床框は黒く塗った栗の木とあり、障子を立てたと考えられる茶室の正面には「面ノ坪ノ内」と「簀子縁」があり、西側の「脇ノ坪ノ内」から幅2尺ほどの片引きの建具を開けて「簀子縁」の端に上がり、席入りする形であったことがわかる。(下の図)

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茶室「四畳半」

 この「武野紹鷗」の茶室「四畳半」は北向きで窓がなく、光は北の建具側からしか入らなかった。また、入口の鴨居が通常よりも少し低く設置されており、縁に上がる戸口が低かったことと併せ、茶室の入口が俗世間を離れ、非日常的空間への入口であることを象徴している。

武野紹鴎」は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称し、4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称したが、後に「千利休」は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいても、深い混乱を生じさせる事になった。

武野紹鴎」の茶室は、現存していないが、京都洛北紫野の「大徳寺紅梅院」に紹鴎好みと言われる茶室がある。(下の写真)

 

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昨夢軒

 「昨夢軒」は、北側中央に位置する四畳半下座床の茶室で、西と南は襖4枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成で、各方向に行き来が出来ますが、北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となります。出入り口を北側におくのは「武野紹鴎」の手法でもある。江戸時代に作られたようである。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

 

☆参考

藤森照信の茶室学        ○茶室とインテリア

     

れいわ新撰組山本太郎の街頭演説仙台

今回は、令和元年の山本太郎が旗揚げした「れいわ新撰組」を紹介します。 山本太郎は、「8つの緊急政策」の提案をしています。

それは、

1、消費税は廃止

2、全国一律!最低賃金の1500円「政府が補償

3、奨学金政令 4、公務員を増やします

5、一次産業戸別所得補償

6、「トンデモ法」の一括見直し、廃止

7、辺野古新基地建設中止

8、原発即時禁止・被爆させない である。

 

下記の動画は、今年(2019年)5月18日に宮城県仙台市青葉区での公開演説の模様です。

 


れいわ新選組代表 山本太郎街頭演説 2019年5月18日 宮城・仙台 青葉区一番町平和ビル前

彼は、それまで下記の地域で街頭演説をしてきました。

2019年3月21日 東京都新宿駅

     3月23日 東京都池袋駅

     4月26日 愛知県名古屋駅

     4月28日 京都府四条河原町

     4月30日 大阪府大阪駅

     5月02日 兵庫県神戸三宮マルイ前

     5月04日 福岡県天神パルコ前

     5月05日 福岡県小倉駅

     5月08日 東京都秋葉原

     5月09日 東京都調布駅

     5月11日 北海道すすきの

     5月13日 東京都明大前駅  

そして、今回取り上げた動画が、5月18日宮城県仙台市青葉区での街頭演説です。

このように、参議院選挙に向けて、一人で立ち上げた「れいわ新撰組」のアピールと、8つの緊急政策を訴えて、多くの候補者を送り出すために、寄付を募っております。

上記の街頭演説の動画が、「れいわ新撰組|市民メディア放送局」で見ることが出来ます。

又、寄付は、「れいわ新撰組HP」からすることが出来ます。

彼の政策提案は、すごくもっともな提案だし、最も国民に寄り添った提案だと思います。

多くの政治家は、外交問題が政治家の役割と思っていても、近隣諸国との友好関係が一向に進まない。その原因が、相手にあるような言い訳をするが、政治家としての努力が足りないのではないかと思います。

良し悪しは別にして、過去には、田中角栄元首相の日中国交正常化があり、小泉純一郎元首相の拉致被害者の一部であるが帰国させている。しかし、それ以降は、逆に遠のいているし、ここに来て韓国との関係も悪化している。

    拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々

内政をみれば、格差が広がり、貧困層が増え、朝食も食べることが出来ない子供達のためにボランティアの「こども食堂」が開設が増えている。これは、本来国がするべきことではないかと思います。菅原文太氏が、国の役割は二つのことがあると言っている。

その一つが、「国民を飢えさせない」ことである。


菅原文太氏のスペシャルゲストあいさつ

今の政府他は、少子高齢化と言って、対立をあおっているが、非正規社員の雇用では、あまりに所得が少なく、将来性もないために結婚も出来ない状態にいる。これを放置して、少子高齢化を叫ぶにはあまりにも政治家として無責任ではないだろうか。

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正規労働者の削減と非正規雇用の拡大

今回、「れいわ新撰組」を取り上げたのも一人でも多くの国民に彼の意気込みを聴いて欲しくて紹介しました。

時間の無い方は、下記の2分の動画を見てください。彼の悲痛な叫びを聞いてください。

 


【大拡散】山本太郎「生きててくれよ」 れいわ新選組

 

☆参考

○僕にもできた!国会議員 ○安倍総理への質問  ○山本太郎闘いの原点

         

「茶室」の話その1

「茶室」とは、 「茶の湯」及び「茶道」における、茶事の主催者が客を招き、茶を出してもてなすための場である。

厳密な「茶室」とは、「千利休」が確立した空間・建物をさすのであろうが、ここでは、「南浦文集」に「茶室」の語が初出とあることから、「茶の湯」とその後に確立した「茶道」の両方のこととして扱いました。

この「茶室」の語が使用されるようになったのは、近世末期以降のことで、それまでは、「数寄屋」、「数奇屋」、「小座敷」、「茶湯座敷」などと呼ばれていた。又「囲い」という呼称もあった。

この「茶室」と言われるものには、「草庵風」のものと「書院風」のものがありますが、一般的に、「茶室」と言えば「草庵風」のものを指すことが多い。禅宗の「方丈」から出た「四畳半」を標準として、それより狭いものを「小間の茶室」といい、広いものを「広間の茶室」というようである。

千利休が、飛躍的な改革を試み、わび茶しかできない、文字通り「草庵風な茶室」を、二畳という小さい空間に結実させたのが、京都山崎の「妙喜庵」の「待庵」に見ることができます。

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妙喜庵の待庵

千利休は、「茶の湯」とは、「ただ湯をわかし茶を点てて、のむばかりなること、と知るべし」と言ったそうである。

裏千家の「千宗室」は、 「茶の湯」とは、「一碗のお茶をまず自分が楽しみ、そしてその一碗をお人と分かち合う一期一会の機会をもつこと」であり、「茶道」とは、「茶の湯を楽しむ一人ひとりが立ち止まって自分の歩んできた道を振り返った際に、その道が利休居士に続いて いるということを確認すること」であると書かれている。(淡交タイムズ2009年12月号巻頭言から)

このことから、「茶の湯」とは、お茶を介しての憩いのひとときを過ごすことであり、「茶道」とは、「茶の湯」通して、己を見つめ直し精進していくことではないかと推察する。しかし、「茶道」は、「千利休」以前にすでに存在していて、一説には「闘茶」から「茶道」へ発展し来て、「村田珠光」によって禅の教えを「茶道」に取り入れて「侘茶」を確立したと言われている。

室町時代の「喫茶」

日本の「喫茶」の風習は、平安時代までさかのぼる。鎌倉時代には「禅宗寺院」を中心に「喫茶の風」が広まり、室町時代には「会所」において茶がふるまわれていた。「室町殿」の「南向会所」では、主座敷の裏手に「茶湯所」という部屋があり、ここで茶を立て、座敷に運んでいた。絵巻物『慕帰絵詞』巻五には当時の会所の様子が描写されている。

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慕帰絵


 画中の座敷には、和歌の集まりと思しき会合において、くつろぎ談笑する僧俗の人々がいる。隣の部屋では、棚に多くの茶碗や茶道具が置かれ、座敷へ茶を運ぶ僧たちの姿がある。当時はこのように、遊興の場において茶がふるまわれていた。このような座敷が、後に床、棚、付書院などを伴った書院造として定式化していき、それに伴って、「書院の茶」と呼ばれる茶の文化が広まっていった。この場において茶道具や飾り物として唐物(中国渡来の茶碗、書画、道具など)が使われるように、中国文化と禅宗の影響が大きかったと思われる。 これが、15世紀後半から16世紀にかけて、「市中の山居」を志向する「草庵の茶」へと移行していく。

「草庵の茶」は、15世紀に「一休宗純」に参禅した「村田珠光」から、堺の町衆である「武野紹鷗」を経て、その弟子の「千利休」に至って大成された。

「草庵の茶室」の起源

「草庵の茶室」は、室町中期に行われていた「淋汗茶の湯」や「茶接待」における「茶屋」にその始源を求めることができる。

「淋汗茶の湯」とは 汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものである。このように、庶民的な「淋汗の茶」を背景に広まった「茶屋」は、建築的には自由な表現が試みられ、その用法も気軽な思い付きが許されたようである。例えば、公家の「万里小路邸」では黒木造、石山本願寺では竹亭と呼ばれるものであったように、自由であった。16 世紀に建てられた「万里小路邸」の「茶屋」では、丸太普請といって材料・形状も違う山から切り出したままの状態の木材(黒木)が用いられ、竹や丸太、加工しづらい木材を利用する事で、自然の趣を映していると伝わっている。 1486年に、「足利義政」の「東山殿」に建てられた「持仏堂」(現在の慈照寺東求堂)の一隅に設けられた「同仁斎」は、義政の私的な場所としての書院であるが、一方で最古の「茶室」とする見方もある。

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慈照寺

慈照寺」は、「銀閣寺」で知られていて、写真左側に「銀閣」、右手前の「東求堂」、「方丈」、「庫裏」と続く。「東求堂」の一角に設けられた「同仁斎」は、四畳半の室で、北側に棚と付書院を設けるが、床は設けていない。部材墨書に「御いるりの間」とあることから、かつてはこの部屋に炉が切られ、後世の茶室に近い構成であったことが窺える。

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「東求堂」の「同仁斎」

そこには別室の茶立所で点茶し座敷に運び込む形式から、室内に炉を切り、亭主がそこで茶を立て客にふるまう形式に推移する過程が見てとれ、これが次第に茶事専用の独立した施設としての「茶室」になっていったと推測される。

今回は、「Wikipedia」、「茶道入門」、「茶の湯こころと美」他を参考に紹介しました。


☆参考

○茶室を感じる     ○茶室集成       ○茶室空間入門